秋風のコレクター

浅井俊裕

極限においては、厳密に実用的な物は、社会的な規定を得る。これが機械である。逆に、機能を失うか,使用から分離された純粋な物は、厳密に主観的な規定を得る。そういう物が収集される物になる。(ジャン・ボードリヤール/宇波彰訳『物の体系』p.106、法政大学出版局)

物には二つの機能があるという。使用される機能と所有される機能であるが、使用機能から離されて、所有のために所有される記号物が収集品と呼ばれる。だから収集の価値基準は、便利だとか、使いやすいかということではなく、個々の収集者がそれを有難いと思うかどうかにかかっており、一般化できるものではない。

中村哲也が興味をもっていることのひとつは、時代や社会の違いによって、同じ物であっても価値評価が逆転することであり、いったん価値が逆転した物を工芸的に鍛えられた手法と挑発的な構成とによって現代美術作品として蘇らせることである。

たとえば大阪での展覧会(個展「PEST CONTROL」)に出品した”金亀”は海亀の剥製を古物商で買い集め、それに金箔を施したものであった。海亀の剥製といえば、かつては富や権力の象徴として、裕福な家の応接間や玄関などに飾られていたものだが、今となっては古物商にも出物が少ないらしい。時代の気分が変化したことによって、亀や獣の剥製は、「高級な飾り物」「由緒正しい家柄」「洗練された趣味」等々を意味するものではなくなり、むしろ反エコロジカルな俗物という意味をもつようになったからであろう。しかし、彼の意図はたんに価値の変化を暴くことではない。古びた剥製に金箔を貼り多数並べることによって、それを作品化し、多様な意味をもたせているのだ。実際、”金亀”の会場では、この作品をシニカルな「現代美術」として観賞するお客さんに混じって、「黄金に輝く亀」という物質の高級感に素直に圧倒される人たちも結構いたという。

今回の作品も、基本的なコンセプトとしては、”金亀”の延長線上にある。トロフィーもかつては、勝利や栄光の証しとして権威あるものだった。ボーリング大会やゴルフのコンペやのど自慢でいただいたトロフィーやカップが、サイドボードの上に、観光地からのお土産といっしょに、うやうやしく飾られていたものだが、最近はそういう光景をあまり見かけない。その理由はたぶん、価値観が多様化してゆく中で、ある特定のコンテストや試合に絶対的な価値や権威を見出すことができなくなり、相対的でしかない栄光の証しとしてのトロフィーは、個人的な記念品にはなっても他人に見せびらかして効果のある代物ではなくなったからであろう。彼は、いまや陳腐なものとなったトロフィーを集め、作品として再生する。そこに見えてくるのは、トロフィーを下賜した競技会の権威の残照だろうか,トロフィーの中身と同じように空っぽの自負心だろうか、あるいはたんに金色に輝く空間の美しさだけかもしれない。

さて、中村を語るには欠かせないもう一つのこととして、昆虫の問題がある。彼は、製本過程で誤って虫を一緒にコーティングしてしまった本の裏表紙を作品として提示したこともあるが、これは昆虫収集を気にかけていたからこそ見つけることができた、いわば副産物のような作品であり、彼の制作の本筋は昆虫を素材にした作品群であろう。昆虫を殺すという行為は同じであっても、崇高な科学としての昆虫標本作りであるならば、ふつう、残虐だ、とは言われない(ことになっている)。そこで彼は織物のように美しい昆虫の標本をつくったのだ(個展「中村哲也の昆虫分類美学」)。この時代においては、この作品の色や形の美しさを愛でる人もいるいっぽうで、芸術のために昆虫を採集しその死骸を加工する行為を残酷だと断じる人もいるだろう。だから昆虫の問題も、価値の相対化という観点から論じることができそうだ。そもそも昆虫自体が、評価主体によって評価が激変するもののひとつである。たとえば彼自身がよく例にあげるように、ミツバチは、はちみつ作りのためには益虫であるが、人を刺すことになれば害虫として駆除される。蝶もコレクター(まさにこのタイトルの映画には、犯罪を犯す蝶の収集家が描かれていた)にとっては宝石のように美しい物であるが、鱗粉や怪しげな動きを嫌う向きも多い。元々「益虫」、「害虫」という言葉は、分類学として意味のある言葉ではなく、人間のその場その場の都合によるものでしかないのだ。

ある価値観を絶対と信じきることがむずかしくなった世の中では、冒頭に引用した学者に代表されるような、いわゆるポスト・モダン的言説さえも時代のモードのなかで擦り減り、すぐにありふれた常套句となって行くのであるが、中村は、曖昧な価値の海に漂う、時代とそぐわなくなった物たちを拾い上げて作品としての新しい見え方を提案するのである。

(ATM現代美術センター/浅井俊裕)1995

覇者の証