皮一枚の世界

椹木野衣

ものの表面というのは、たいへん不思議な性質を持っている。たとえば鏡。いったい、鏡に映った世界は、どれくらいの「厚み」をもっているのだろうか。もちろん、鏡に「厚み」があろうはずがない。どんなにそこに奥行きがあるように見えたとしても、鏡それ自体は一枚の平面にすぎないわけだから、そこに映し出された世界には「厚み」といえるものはない。鏡の世界は、厚みのない平面に、限りない深みを湛えた無限の世界を招きよせるという、たいへん奇妙な性質を持っているのである。

したがって、鏡の表面に少しでも「歪み」、すなわち奥行きがあれば、たちどころに、そこに映し出された世界もまた、表層の世界にすぎないことが暴かれてしまう。いいかえれば、鏡の表面がかぎりなく薄くあればあるほど、奥行きを欠けば欠くほど、反対に、そこに映し出される世界は深みと奥行きをもつということになる。わたしたちは通常、奥行きや深みを持った世界というものを、表面的で深みを欠いた世界と対立させて考えがちである。しかし、鏡の例をとればあきらかなように、そこから敷延して遠近法で描かれた絵画や写真、映画までを眺めわたしてみても、わたしたちの身の回りには、深みを欠くことによっていっそう深くあるような世界がたいへん多いことにきづくはずだ。いやむしろ、メディアというものは、そこにないものをいかにそこに立ち現すか、という技術とつねにかかわってきた。絵画の描写能力、写真のなまなましさ、映画の迫真さ・・・・これらはいずれも、画面の処理、写真であれば焼き、映画なら銀幕装置の出来不出来と切り離すことは絶対にできない。巧みに薄くあればあるほど、そして表層的であればあるほど、そこに立ち現される世界は深みを増すのである。

中村哲也は、当初より一貫して作品の表面ということにかかわってきた作家である。あるいはそれを文化の表層性といいかえてよいかもしれない。いずれにせよ彼の興味は、そこにないものをいかにそこに立ち現すかということに執拗に向けられてきた。そのことは、威嚇のポーズをフリーズさせた今回の作品でも同様である。けれども、彼の試みが、表面を巧妙に仕上げることによって、いかにそこに世界を生々しく立ち現すか、ということにつきるのでないことはいうまでもない。彼のユニークなところは、ちょうど鏡の世界がそうであるように、そこに立ち現された世界がリアルであればあるだけいっそう、その世界がまったくの仮象であるかもしれないことを示すところにある。中村の作品において、世界が深みを湛えてリアルであるということは、その世界がいかに根拠を欠いた、表面だけの世界であるかということと矛盾しない。むしろそれは、背中合わせに共存すらしているのである。

中村の作品は、どれをとっても基本的にはこの強力な二重性に貫かれている。さらに彼は、そこにないはずのものをいかにそこに立ち現すかという、「技術」が本質的に抱えている二重性についてのさまざまな考察を通じて、権威や歴史、伝統、さらには美や理念といった、本来ならば最高度に「深み」と「厚み」を湛えているべきものもまた、実際にはさまざまな「技術」に支えられたものにすぎず、したがって深みの欠落や表層性といった要素となんら矛盾しないばかりか、それらなくしては成立することすらおぼつかない、内在的な「危うさ」を持っていることを対象化してみせる。

中村がそのような危うさを立ち現すために使用する「工芸」技術が、漆、螺鈿、金箔といった、いずれも表面の処理を通じていかに世界を立ち現すかという性質をもったものであることは、偶然ではない。それがいずれも、かぎりなく表層的に鍛え上げられることによって、同時にそこに歴史や権威、価値や美といった文化的な深みを演出するための「技術」としては、たいへん洗練された手法だからである。

中村が今回見せてくれているのは、狼とエリマキトカゲ、そして人間の子供の威嚇のポーズである。もちろん彼の目的が、生物の「威嚇」をいかになまなましく描写するかといったことにあるわけではない。中村は、「威嚇」という生物学的な現象を、表面処理とその技術についての考察を通じて、文化の次元にまで翻訳しようとしているのである。これらの作品が豪華で高価、そしてゆえに「危険」に見えれば見えるほど、反対にそれが表面的な「威嚇」にすぎないかもしれないことが、ここでは見事に示されている。そして、そのことを通じて、中村はわたしたちの「文化」そのものが威嚇的であることを示そうとする。それは、先に言った事とは裏腹に、人間の「文化」がいかに生物学的なプログラムに支配されているかをも、不吉に暗示している。

(さわらぎのい・美術評論)1997

ポーズ