新製品「レプリカ」誕生!

村田真(美術ジャーナリスト)

海亀の剥製に金箔を貼った「金亀」、トロフィーを色鮮やかに塗り分けて並べた「POP OFF」、威張った格好の子供や動物の像に螺鈿を施した「POSE」・・・・・。中村哲也の作品は一見したところ素材も技法も多彩だが、共通していることがある。それは、いずれのモチーフも権威の象徴や威嚇のポーズであること、また、そこに不釣り合いな金箔や塗料や螺鈿を施すことによって、価値を転倒させていることである。

かつては金持ちや権力者の豪邸にこれ見よがしに飾られていた海亀の剥製もトロフィーも、中は綿が詰まっているだけだったり、表面が金メッキで覆われているだけだったりする。これらは哀しいかな、子供や動物のいばった格好と同じく見かけ倒しの威嚇ポーズにすぎない。中村は、その表面を(もともと表面的でしかないのだが)工芸的に処理することで、権威的なるもの,威嚇的なものを装いも新たにポップでゴージャスなアートに変えてしまうのだ。

新作「レプリカ」もほぼ同様のコンセプトに貫かれている。ジェット機のような形をした全長6メートルものこの彫刻は、世界でもっとも速く飛びそうな形態を追求したデザインである。ここで重要なことは、外見こそジェット機に似ているものの、あくまで「もっとも速く飛びそう」なだけで実際には飛ばないばかりか、力学的にも工学的にもなんら根拠のない「いかにも」なデザインであることだ。事実、その華麗な外観とは対照的に、内部は最小限の木材と発泡スチロールで組み立てられ、あとは空洞になっている。一言でいえば、中身のない見かけ倒しの威嚇ポーズなのである。

ところで、中身がないとか見かけ倒しというと負のイメージがつきまとうが、考えてみれば絵画にしろ彫刻にしろ工芸にしろ、美術というものはすべて中身がなく見かけ倒しにすぎないともいえる。ここでプラトンを持ち出すのもあながち的外れではないだろう。プラトンは『国家』第10巻の冒頭で、寝椅子を例に芸術家の立場を貶めている。すなわち、「寝椅子」といったときにだれもがイメージする寝椅子の本性を「イデア」とすると、そのイデアを真似て職人はそれぞれオリジナルの寝椅子をつくり、画家はさらにその寝椅子を真似て絵を描くことになる。つまり、芸術家とはイデアの模倣を模倣する者にすぎず、本性から遠ざかること3番目というわけだ。

この「イデア論」を中村の作品に置き換えてみると、彼の参照すべきイデアとは「権威的なるもの、威嚇的なもの」といえようか。その表象物である海亀やトロフィーの表面を加工することで、イデアそのものを笑い飛ばしてしまうのが彼の作品だった。これは芸術家のイデアへの逆襲であり、返す刀で美術や工芸というものが見かけ倒しにすぎないことも暴露しているのだ。

では「レプリカ」の場合はどうだろう。この作品のイデアは「もっとも速く飛びそうなもの」である。ならばその作品はイデアのレプリカのレプリカ・・・・・・といいたいところだが、残念ながらそうはならない。「レプリカ」の形態は海亀やトロフィーとは違って想像上の産物なので、イデアの模倣としてのオリジナルがなく、「レプリカ」自体がイデアの直接的な模倣、すなわちオリジナルであるということだ。実にややこしいが、「レプリカ」にはオリジナルがなく、「レプリカ」がオリジナルなのである。

このように「レプリカ」は、めくるめく逆説へと見る者を誘う迷宮の入口といえる。もちろん「レプリカ」の意味を知っているかいないかは大した問題ではない。むしろ知らないほうが、「レプリカ」という金属質な響きからダイレクトに作者の意図が伝わるかもしれない。その表面はメタリックなワインレッドに仕上げられ、「世界最速の」ハリボテにポップでゴージャスな彩りを添えてくれることだろう。

(1998 村田真)

レプリカ