スーパーサーフィスの彼方にあるもの

後藤繁雄(編集者/クリエイティブ・ディレクター/京都造形芸術大学ASP学科教授・学科長)

僕たちにとって、「自然」な環境は、いつの頃からか、単なる「ワイルド」ではなく、きわめて「人工」と融合したものになった。そして、それ以上に、メディアを通して与えられる情報やイメージと融合したものとなった。その意味で、トーキョーは、この地球環境と資源の危機に直面し、経済のサスティナビリティが、エマージェントな課題である21世紀に、きわめて特異な「価値空間」「生存環境」をうみ続ける場所になった。そこでは、過去の成長モデル(子どもから大人へ)、内面と外見、性的モラリティなどは変質し、知性とフールを転倒させた「プレイランド」化が日々進んでゆく。

アーティスト、中村哲也の作品を語る時、トーキョーのそのような都市背景を語らずにはおられない。しかし、それは彼の作品をエキゾチシズムに閉じこめるのではなく、来たるべき未来に対して、解き放つ視点となるはずだ。中村哲也は芸大で漆工芸を学んだ。それは一見、クラシカルな技法に思えるが、彼が向かったのは、中空の昆虫、螺鈿の馬、金箔の亀だった。そして、FRPとウレタンにより「世界最速っぽく」見える「レプリカカスタム」をつくり始めることだった。その「カー」は「最速」に思えるだけで、内臓器官もエンジンもないのである。

実際にはまるで走れないのに、世界一早く走りそうに見えるモノをつくること。中はカラッポなのに、世界最強に思えるモノをつくること。それは西洋世界においては、虚無やヴァニティとともに「ポップ」が用意したものであったが、「カラッポ」とは、実は日本においては、禅カルチャーの古より、親しみあるものであった。中村哲也が日本の工芸から得たもの。それは、アートをつくる上においても、カラッポでよいということであったろう。
「世界最速っぽい車」は、当然「アートっぽく見えるアート」という感覚を中村哲也の中に生成させる。いかにアートを生み出すかではない。人々が、いかにもアートであると思うモノ、アートをアートたらしめているコンセプトやシステムの、その「ぽさ」をカタチにしてみせること。村上隆は、スーパーフラットというコンセプトのもと、ポップアート以降のアート戦略を再組織化したが、中村哲也もまた、誰よりも確信犯なのである。

この数年来の中村哲也の「制作欲」には、目をみはるべきものがある。あまりに速すぎるために座席もなくなってしまった「スピード・キング」シリーズは、その後も「コンセプトカー」や未来のF1を想定した「モナコスター」などへと怪物的に進化し続けているし、その他にも、メゾンエルメスでは、白いクルーザーまでにも手をのばし発表した。

しかし、その作業を成長や成熟といったモデルで語るのは間違っているだろう。彼が時代背景としているところにおいて、イメージは、TVやアニメ、マンガが生み出した「超人的なスピード感」であったが、彼はそれをルーツとしながらも、カタチとする時点において、別のフェイズに変換させようとする。サーフィスの彼方にブレイクし、かつてない回路の創出と彼は格闘し続けるのだ。

中村哲也こそ、これからも、日本のアートの、いや世界のアートの最速モデルであり続けるだろう。

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